2011年12月01日 (木曜日)

学ぶことの大切さ - 2.日々の雑記...

子供の頃、学校の宿題や新聞などを読んでわからない字があった時に、「この字、何て読むの?」と両親に聞くと、必ず「自分で調べてみたの? 辞書は見たの?」という言葉が返ってきた。

ある日どうしてもわからないと少し食い下がってみた。ならば辞書を持ってきなさいと言われ、答えを教えてくれるのかと思って急いで持っていった。すると部首(へん、つくり)や画数で調べる方法などを一通り説明したと思ったら、最後の言葉は「じゃあ、自分でやって(調べて)みなさい」だった。

わからなくて困っている時に、自分で調べたり考えていたことを認めてくれた時は、その問題の解き方(考え方)や求め方を一緒に考えてくれたが、自分で調べたり苦労もせずにいきなり質問しても、一貫して両親は答えを教えてはくれなかった。

あなたの宿題
そんな時、母親から聞いた答え(一緒に考えた答え)を学校で発表したところ、間違っていたことがあった。家に帰って母親にそう伝えると、「あら、そうだったの、でもあの時あなたと一緒に考えて、決めた答えだったよね」と、真顔で返された。そんな時には決まって、「これはあなたの宿題だよ、私の宿題じゃないんだよ」と言われた。

自分ではわからないから相手に聞いた、その答えが間違っていたらその結果はあなた自身の責任だと言われる。とても理不尽なことを言われた気分になって、この人(母親)は何を言っているんだろうと、初めはまったく理解できなかった。あなた自身のことなのだから、あなた自身が考えなければならない。あなたのことは、最後まであなたの責任でしなければならないのだから。こんなことを得々と言い聞かされた。

自分で考えても誰かに聞いても、答えが間違っていたら結局は自分が怒られたり恥をかいたりする。そう考えたら誰かに答えを聞いて鵜呑みにしていたことがとても馬鹿らしくなり、他人に答えを聞くこと自体に興味が湧かなくなった。ならば、自分で一生懸命に考えたり悩んだりしていた方が気持ちも楽であり、そう割り切って考えると、なぜか母の言いたいことも少しだけ理解できた。

学ぶ(Learn)
教育こそが国の基本との信念の下、北欧諸国が教育に注いできた情熱には多大なものがある。北欧の四カ国すべてが世界の国際競争力ベスト20位に入り、その中のデンマークの教育施策はとても興味深い。

『すべての子どもに学ぶ権利はあるが、学校に答えを教える権利はない』

教えるという前提には、答えがあるということになる。しかし、社会生活の中では必ずしも明確な答えはないのであって、答えがない以上は、『教える(Teach)』という概念を否定するしかない。デンマークでは生徒たちが、自ら『学ぶ(Learn)』ことが教育であり、教える人=先生(Teacher)という概念も成立しないというものである。

求められる姿勢
わが国の学校教育とは、答えを教えることだとの先入観から数多くの数式や方程式を伝え、またそれらを記憶し試験に合格することが生徒としての役目だと『学び』育った多くの人たちが、社会で困惑している。決まった方程式(答えに近似)から答えを見つけることができても、過去の経験や勘などの学んだ結果から答えを考えたり想像しようとする姿勢がないためだ。

両親の姿勢は漢字の読み書きだけに限らず、疑問に思ったことやおかしいと思ったことを質問しても、「あなたはどう思うの?」と必ず自分の意見や考えを求められた。何かを得るためには、それなりに努力が求められる。何かを知るためには、それに対する理解や自分自身の考えが必要になる。両親からは、考えることと学ぶ姿勢、責任と自覚、そのようなことを学んだ。

自らが学ぶことの大切さと、そんな姿勢を一貫して求め続けてくれた両親の姿勢に、ひとりの人間として尊敬と感謝の念に耐えない。

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2011年11月07日 (月曜日)

謙虚さ - 2.日々の雑記...

パナソニック(旧社名:松下電器産業、松下電器製作所、松下電気器具製作所)の創業者である松下幸之助の数多くの著述の中にも頻出する、「謙虚」という言葉。謙虚さ、よきリーダーに必要なキーワードなのだという。

日本人が好んで使うこの言葉は、いったいどのような意味を持つのだろうか。「集中力」、「決断力」、「変革する力」など他の言葉が発する力強さとは対照的に、一見するとマイナス思考とも感じられるこの言葉が持つ意味を、考えてみたくなった。

真に求められる謙虚さとは、いったいどのようなことなのか。「謙虚」が持つ根底の意味とは、この言葉が持つ本来の力強さとは。控えめな態度を取ることや他人に遠慮することが、謙虚さということなのだろうかと。

謙虚は美徳か
日本人には慎ましやかな態度や控えめな態度を美徳と感じるところがあり、自信を持った態度や発言は時に生意気だとか鼻につくなどと評されることがある。謙虚な態度は美しささえあるなどの発言は、そんな感情が言わせるのだろう。

「優秀で実力はあるかもしれないが、どうもあの態度は好きになれないなぁ」など、接した際の感じ方や表現の仕方によって、その人自身の好き嫌いが左右してしまうことは仕方のないことでもある。また自信を持った発言をする人を好み、評する人も中にはいるだろう。しかしそのこと自体は謙虚さに欠けているということではなく、好き嫌いといった感情や気持ちに触れたいわば嗜好の問題である。

素直に肯定する
謙虚さとは、あくまでも今の正しい自分の姿を真摯に受け止めるとともに、肯定すべきところは肯定することではないだろうか。それには、弱さや強さといったことも含めて、自分自身を客観的な事実から正確に把握し、正しく理解することが大切である。自分が求めている、優れていると考えられることは素直に評価し、そしてさらなる目標を掲げれば良いのではないだろうか。

自信があるのなら、考えたこと思ったことを素直にそう伝えれば良い。偉ぶる必要もないし、遠慮をする必要もない。自分自身を評価した基準さえ間違っていないのなら、人の目さえも気にする必要はないのである。

謙虚さとは、自分を素直に肯定することから始まるのではないだろうか。

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2011年08月07日 (日曜日)

自分はどう見られたいのか - 2.日々の雑記...

「自分はどう思われているのか」、「自分は評価されているのだろうか」と、そんなことを気にする声を耳にする。いったいどのように思われているのか、本当に必要とされているのか。自分の評価と周りの評価とのギャップのはざまで、全てのことに自信を持てなくなった時に、ふと知りたくなるのだろうか。

「自分は他人からどのように見られたいか、思われたいか」と問われたときに、あたかも他人であるかのような目で客観的に外から自分を見た時に、と考えた人はどのくらいいるのだろう。

周りの人からどのように思われたい見られたいと考えた時に、自分がどう見られているかとの視点ではなく、「本来は自分がどうありたいと考えているが、実際にはどのようなことが不足していて、では何をすべきだろうか」と考えるべきではないだろうか。

生きていくうえでその自覚と覚悟を持って、自分自身に対して責任を求め続けなければならないのは自分であって、他人は他人でしかないのである。自分はどうありたいかがなければ、何も始まらないことにきっと気づくはずである。

周りの人の評価ほど、無責任ないい加減であてにならないものはない。自分自身で自分を正しく評価(冷静な分析)できれば、曖昧な綺麗ごとの目標を設定し満足するのではなく、より具体的な毎日の小さな目標を、コツコツと設定することができるように考えていけるはずである。

「自分はどう見られたいのか」は「自分はどうありたいのか」であって、自分はいま何をすべきかを常に探求することであり、自分自身と真摯に向き合うことではないだろうか。

wrote by ootani : 10:30 | コメント (0)

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