2012年3月11日 (日曜日)

あれから、1年 - 1.日々の雑記

もう一年が経ちました

そういえばあの日も、こんな気候でまだ寒かった
次の日に空を見上げたら、冷んやりと澄んだ青空が、何事もなかったようにツンと澄ましているようだった
自然にとって、あんな出来事でさえも何も特別なことではないって、思い知らされた

人間が特別だなんて思っていたとしたら、それはエゴなんだ
自然の中に、生かされている、生かしてもらっている

自分は死なないって、どこか過信というか否定したいところがあったから
あの日あの惨状を眼にしたときに、あぁ…僕でさえ簡単に死ぬんだなぁって、そう思い知らされた
そんなことを考えていたら、お前はもう少し生かしておく、神様からのそんな声が聞こえた

だから、もう少しだけ頑張ってる
生かされている人間としての、責任だから

wrote by Satoshi Ohtani : 14:46 | コメント (0)

2012年3月 5日 (月曜日)

第44回 「習慣化を考える」の感想 - 2.コラム

[2012/03/05] 第44回 「習慣化を考える」

習慣化とは、どうなるべきか(様態や状態)であって結果を表現したものです。また生活とは、日々の営みの全てを総称したものです。

生活のメニューに、または一部に行動を組み込むのなら、

・生活の中に、新たな一つとしてメニューを追加する
・生活の中の、既存のメニューを修正する
・そもそも生活に対する考え方(過ごし方や姿勢)を、根本的に見直す

しかありません。

その生活のメニュー(行為、行動)の中には、継続して行うべきものと単発(その時だけ)で行うもの、大別すると2種類あります。さらに、その時の欲求や要望により対処が異なるものや、機械的かつある一定の条件で行うものもあれば、難しかったり嫌だとしても必ず行わなければならないものなど、多岐にわたっていると思います。

まず、今回のコラムは「なぜ、続けられないんだろう、私は」とのテーマと理解しています。とてもシンプルなテーマです。「なぜ続けられないんだろう、そして続けるためにはどうしたら良いのか」なのですから。前述の点を整理しないまま、どうも手段(その行為、続けるという行動)だけが論点となっているように思います。


例えば、ウォーキングを継続して続けられないことをあげた時に、「ウォーキング」を継続して行いたいのか「有酸素運動」をしたいのか、そもそもその本当の理由(目的)は何なのだろうです。そして自分自身の、それに対するその必要性ではないでしょうか。

まずは簡単なことから始めるまたはやってみるは、興味を持って良い対象かどうかの判断の際に行うべきことです。やるべきかやらなくても良いかの判断が難しい、またはそれを考えるよりも体感したい場合などに用いるアプローチだと思います。したがって、そのことができなかったり続かなかったとしても、後悔や自己否定などするはずがありません。そのことがわかったり判断できたことで、新たな気持ちで前に進めるはずだからです。

「少しずつできることから、一歩ずつ」とは、簡単とか難しいなどの段階やレベルを示しているのではありません。必要だと定義されている、たとえば10個のうちの1個から(一つずつ)、丁寧に成熟または昇華させていく(上げていく)といった範囲を示しています。

そもそも、程度が低いとできて高いとできないのは、要するにそれではできない(必要としない、困っていない、放棄したい)ということです。本当に必要であるならば、やるだろうし、やらねばならないのであって逃げられないのではないですか。物事の本質と定義そのものを曲げて解釈すると同時に、レベル自体をどんどん下げていては、根本的な解決には遠ざかっているだけで行き着くはずがないと思います。

毎日30分歩く行為を諦めて週末に歩くとレベルを下げたとしても、そもそも最初の目的に近づいているのでしょうか。これから徐々にレベルを上げるといっても、本当に上げられるのでしょうか。もし簡単に上げられるというのなら、なぜ最初からできないのでしょうか。そのできるのではとの根拠は、どこにあるのでしょう。

ここで「目標」について考えてみますが、そもそもその「目標」が本当に必要かどうかです。「自分なりの行動」とは、何を指しているのでしょうか。必要か必要ではないかを指しているとは、とても想像できませんでした。

なんとなく憧れたり、人のものを模倣してみたり、カッコいいなと思って始めようとする程度の漠然とした目標ならば、そもそもいま本当に自分は必要としているのか、それをしないと困ってしまうのかと、自問自答することが大切です。

そもそもその程度の欲求なのですから、続けられなくても良いのであって、できないしないのはある意味では正しい姿です。そんなに真剣に考えている訳ではないので、できなくたって別にどうってことはないのですから。まずはそのこと自身に本当に興味を持っているか、実現したいという真剣な気持ちを持てるのか、ならば持つためにはまずは何をすべきかを考えるべきです。

レベルを下げて実現できたことが、すなわち興味を持っていることとは相違すると理解すべきです。

健康維持のために(本当の真の目的は分かりませんが)、本当に有酸素運動をしたいと真剣に思うのなら、自宅で「スクワット運動」や「踏み台昇降運動」など手軽で簡単に行える運動がたくさんあります。雨が降ったり雪が降ったとしても、就寝前やお風呂前に30分程度行えばすむことだと考えられれば、毎日だとしても苦にはならないことでしょう。

手段のレベルを下げるのではなく、敷居を下げた(取り掛かりやすい)他の手段にすることで、いくらでも実現することができます。本当にそれを必要としているのならばです。

言い訳をする人の多くは、自分以外の外に自己否定の原因(理由)を求めている人です。自分が決して悪い訳ではなくて、誰かが何かが邪魔をするからできないと定義する人です。自分以外の外に理由を求めている限り無限の理由が存在してしまい、きりがありません。

さらに自分は悪くないので、自分を変える(変わる)必要性を感じないため、かえって根を深くしています。

言い訳をしてはいけないのではありません、言い訳を最終的には自分に対して向けていかないと、何も解決しないですよということです。自分のダメな箇所を見つけて真摯に受け止めては、自分のここがいけないのだから、今度はこうして変えてやってみよう。そこを少し直して、またチャレンジしてみようなどです。原因や理由が自分にあるのだから、昨日と違う自分に、自分自身を変えていくしかないのです。

一見すると、正しい考え方でありアプローチと錯覚してしまっている点が、かえって根の深さを物語っていると思い、とても苦慮したコラムです。

wrote by Satoshi Ohtani : 08:30 | コメント (0)

2012年2月13日 (月曜日)

技術者に求めたい資質 - 1.日々の雑記

上司やリーダーが伝えたことや言っていることを理解できただけでは意味がない。ごく当たり前の能力であり、難しいことではない。なぜそのようなことを考えたのかを理解することができなければ、それらの目的や必要性といった本当の意味を理解した訳ではないからだ。

そのことを自らが考えつかなかった、考え出すことができなかったことに対する疑問や理由に、興味が湧かない限りその人に成長はない。

学校の生徒と同じ気持ちやその延長線上にいる人たちは、伝えたことが理解でき記憶していれば、授業で覚えた方程式さえあれば試験の問題を回答できることと同じように、その後に発生する課題や問題に対応できると錯覚してしまうものだ。ここは学校ではないし、ましてや義務教育の場ではないのだ。決まった方程式や確かな答えなどない、結果を求められる社会なのだ。

自らが考え、考え方を生み出すことができ、自らが行動するためのトレーニングのカリキュラムを考え出す力を持たなければならないのである。

システムとは規則、ルール、基準などの集まりである。開発工程にいたっては、適切かつ適正な手順にしたがって遂行する能力が求められる。しかし既に作られたルールを理解できるだけの人間は、もはや必要とはしていない。それらのルールが本当の意味で必要なのか。そもそもそれらはなぜ必要であるのかを議論できる人材が必要である。

そのためには「なぜ?」とその理由を知りたくなる興味と疑問の気持ちと、それらを納得させるための根拠や確証を追求する気持ちを持ち続けることが重要である。

これまでの秩序にわずかな変化を加えて進化を生み出すことができる、そんな人材を必要としている。

wrote by Satoshi Ohtani : 07:00 | コメント (0)

2011年11月 7日 (月曜日)

謙虚さ - 1.日々の雑記

パナソニック(旧社名:松下電器産業、松下電器製作所、松下電気器具製作所)の創業者である松下幸之助の数多くの著述の中にも頻出する、「謙虚」という言葉。謙虚さ、よきリーダーに必要なキーワードなのだという。

日本人が好んで使うこの言葉は、いったいどのような意味を持つのだろうか。「集中力」、「決断力」、「変革する力」など他の言葉が発する力強さとは対照的に、一見するとマイナス思考とも感じられるこの言葉が持つ意味を、考えてみたくなった。

真に求められる謙虚さとは、いったいどのようなことなのか。「謙虚」が持つ根底の意味とは、この言葉が持つ本来の力強さとは。控えめな態度を取ることや他人に遠慮することが、謙虚さということなのだろうかと。

謙虚は美徳か
日本人には慎ましやかな態度や控えめな態度を美徳と感じるところがあり、自信を持った態度や発言は時に生意気だとか鼻につくなどと評されることがある。謙虚な態度は美しささえあるなどの発言は、そんな感情が言わせるのだろう。

「優秀で実力はあるかもしれないが、どうもあの態度は好きになれないなぁ」など、接した際の感じ方や表現の仕方によって、その人自身の好き嫌いが左右してしまうことは仕方のないことでもある。また自信を持った発言をする人を好み、評する人も中にはいるだろう。しかしそのこと自体は謙虚さに欠けているということではなく、好き嫌いといった感情や気持ちに触れたいわば嗜好の問題である。

素直に肯定する
謙虚さとは、あくまでも今の正しい自分の姿を真摯に受け止めるとともに、肯定すべきところは肯定することではないだろうか。それには、弱さや強さといったことも含めて、自分自身を客観的な事実から正確に把握し、正しく理解することが大切である。自分が求めている、優れていると考えられることは素直に評価し、そしてさらなる目標を掲げれば良いのではないだろうか。

自信があるのなら、考えたこと思ったことを素直にそう伝えれば良い。偉ぶる必要もないし、遠慮をする必要もない。自分自身を評価した基準さえ間違っていないのなら、人の目さえも気にする必要はないのである。

謙虚さとは、自分を素直に肯定することから始まるのではないだろうか。

wrote by Satoshi Ohtani : 07:00 | コメント (0)

2011年8月 7日 (日曜日)

自分はどう見られたいのか - 1.日々の雑記

「自分はどう思われているのか」、「自分は評価されているのだろうか」と、そんなことを気にする声を耳にする。いったいどのように思われているのか、本当に必要とされているのか。自分の評価と周りの評価とのギャップのはざまで、全てのことに自信を持てなくなった時に、ふと知りたくなるのだろうか。

「自分は他人からどのように見られたいか、思われたいか」と問われたときに、あたかも他人であるかのような目で客観的に外から自分を見た時に、と考えた人はどのくらいいるのだろう。

周りの人からどのように思われたい見られたいと考えた時に、自分がどう見られているかとの視点ではなく、「本来は自分がどうありたいと考えているが、実際にはどのようなことが不足していて、では何をすべきだろうか」と考えるべきではないだろうか。

生きていくうえでその自覚と覚悟を持って、自分自身に対して責任を求め続けなければならないのは自分であって、他人は他人でしかないのである。自分はどうありたいかがなければ、何も始まらないことにきっと気づくはずである。

周りの人の評価ほど、無責任ないい加減であてにならないものはない。自分自身で自分を正しく評価(冷静な分析)できれば、曖昧な綺麗ごとの目標を設定し満足するのではなく、より具体的な毎日の小さな目標を、コツコツと設定することができるように考えていけるはずである。

「自分はどう見られたいのか」は「自分はどうありたいのか」であって、自分はいま何をすべきかを常に探求することであり、自分自身と真摯に向き合うことではないだろうか。

wrote by Satoshi Ohtani : 10:30 | コメント (0)

2011年7月23日 (土曜日)

わからないことが、わからない - 1.日々の雑記

「考えてもわからない」、「さんざん考えてみたけど、やっぱりわからなかった」などと言う声を耳にする。しかし、それは考えていないことへの言い訳にすぎない。

ふと気づくと、誰かと何気ない会話をしながら話しを聞いているときに、相手の言わんとしているだいたいのことは把握していても、内容の細部までは正確に理解できていないことが多いはずだ。新聞や雑誌を読んでいるときに、地名、公的機関の名称や略語、社会情勢の動向も含めた文字や情報のすべてを、正確に理解していないままやり過ごしていることに、きっと気づくはずである。

大意は把握でき、「何となく、わかった」と感じたとしても、あくまでも相手の気持ちや意向についてわかっただけで、言葉で伝えられた内容の理解についてはかなり曖昧だということではないだろうか。

そんなとき、雑談や何気ない会話での「何となく」は許されても、社会生活の重要な局面での会話においては、誰が、いつまでに、何を、どのようになどといった提示された情報も含めた事実についての理解を、曖昧にしたままわかっていると勘違いしていることに早く気づかなければならない。この最初の出発点の理解がずれていると、その後のプロセスに支障をきたすことになり、想像や知識すら備わらずに、ひいては疑問すら湧かないことになる。

「わからないことが、わからない」は、わかっていないことすら気づいていないことであり、自分が何についてわからないかを知ろうともせず、整理もしないまま野放しに放置していることである。

人はどんなに優秀な人に教えを乞たり、どんなに素晴らしい教材で教育を受けたとしても、自分の頭と言葉でもう一度考え直さない限り、正確には理解できないものである。教えればわかる訳でもないし、学べば必ず理解できるものでもない。知識とか知恵というものは、自分の外側に百科事典のようにあるものではないし、自分の頭が理解して自分の中で生きているのが知識であり知恵である。そのためには、自分の頭で一つ一つ考え直して理解していくという努力と我慢が必要なのである。スポーツ選手が毎日のトレーニングの積み重ねの中から、苦労して会得した自分なりのやり方やタイミングなどと同じように、頭の中の考えも自分の中で咀嚼して考えることをしない限り、本当の意味での理解には到達しないのである。

わからないことに気づいて「何となく、わかった」と勘違いしないために、内容の細部までを正確に理解し把握したいのならば、一つ一つの疑問を分類し整理しながら、その答えを導くための地道な努力と我慢が必要だということである。

参考著書:白取晴彦(2005)『頭がよくなる思考術』ディスカヴァー・トゥエンティワン

wrote by Satoshi Ohtani : 07:00 | コメント (0)

2011年4月15日 (金曜日)

褒めたって、育たない人もいる - 1.日々の雑記

褒めて育つ、または伸びるタイプの人がいる。

時に、僕は(私は)褒めて育つタイプだ、叱られたりすると落ち込んで(萎縮して)しまう。そのような発言を聞くことが多いのも事実である。これらのことは子供の頃に叱られたことが少なく、叱られること自体に慣れていないことに起因したり、また一方的に叱られることが原因であったりなど、本質的には双方のコミュニケーションの取り方の問題であることが多いのではないだろうか。

そのような人たちの中には、叱られるようなことを平気でしておきながら、その結果を反省したり正すことをせず(できず)に叱らないで欲しい、と甘えているだけのタイプがいる。

常に誰かに守られて育っていると、ひとりでは困難な出来事の矢面に立つことができず、目の前の問題から逃避することしかできない。褒めるとぬくぬくとつけあがり、叱ると萎縮する。決してひとりでは立ち上がることができず、まるで転んだ子供が母親から手を引いてもらわないと起き上がることができない光景に、とても良く似ている。拗ねてイジケてただただ泣き続け、声を掛けてもらえることを待ち続ける。そんな状態の時に「ひとりで起き上がることもできないのか、ダメな奴だ」などと言うものなら、睨みつけられて逆切れされる羽目に陥ったり、どうせ僕は(私は)などと居直ったりする。

とてもたちが悪いタイプの人たちである。

このような人たちの特徴は、自らが何かの行動を起こすことや自分自身で決断したり奮起したりすることが、とても苦手だと言うことである。叱られて萎縮した時に、自分自身で起き上がることができないため、人から立たせてもらわない限りは決して起き上がることができない。そんな時に、やさしい言葉をかけられて立ち上がることはできたとしても、辛い思いをすることから常に逃避する傾向にあるため、自分自身を見つめ直して修正することができずに、また同じ過ちを繰り返してしまう。何もせずに落ち込んでいれば、また誰かがやさしい言葉をかけてくれるだろうと、甘え続けているだけなのである。

周囲の人たちとの触れ合いが少なく(乏しく)して育ったせいか、周りの人たちとのコミュニケーションや触れ合いながら人間形成するとの意識が希薄であり、自分のことしか興味が持てなくなっている。その割には愛情に飢えているため、人から愛されたいと常に思っているが、周囲とどのように接したら良いのか未だに分からないのも彼らの特徴の一つでもある。

褒めて育つタイプを正しく解釈するのなら、自分のやったことやしたことを正しく評価して欲しい、理解して欲しい。そしてその結果が良いと思うのなら、褒めて欲しい。自分自身もよくやったと思うことを、他人も認めてくれて互いに同じ思いとなったことが、とても嬉しくなる。なので、また頑張りたくなった。そのようなことではないだろうか。

頑張った人だからこそ認めてもらえることであり、努力もせずに辛いことから目を背けて逃避しかしない人は、いくら褒めたって、決して育つことはないのである。

wrote by Satoshi Ohtani : 07:00 | コメント (0)

2005年7月17日 (日曜日)

東京って..やっぱり良いなぁ - 1.日々の雑記

久しぶりに東京へ戻ってきました。
夕食も終わって、実兄と部屋でいろいろと話しをした後、深夜にふらっとホテル近くを歩いてみました。

10から20代の頃の1番多感な時期を、東京で過ごしました。
仕事は別にして住む所じゃないかなぁ..と20代後半に考えるようになって。でも、出張などで新幹線の東京駅に着くと、無性に帰ってきたなぁと思います。特に山手線を見たり、乗ったりすると。僕にとっては懐かしい匂いがするんです。

戻ってこようかなぁ..なんて、最近思うようになりました。疲れてるのかなぁ。単なる郷愁に駆られてるだけだよなぁ。それにしても、広いツインルームに1人で泊まるのって、寂しいですね。

wrote by Satoshi Ohtani : 21:43 | コメント (0)

2005年7月13日 (水曜日)

メールでの会話って..苦手です - 1.日々の雑記

コンピュータと付き合い始めてから約20数年、電子メールの利用は約10年近く経過しました。仕事も含めてパソコンへは毎日向かっていますので、基本はパソコンメール、携帯メールは移動中などの「メール到着通知」(パソコンメールを転送)の手段となっています。

少し横道にそれますが、1996年12月に会社の海外研修でロスアンゼルスへ渡米した際に、やりたいことの1つに時差を飛び越えて会話することができる、電子メールがありました。時差はロスアンゼルスが17時間(冬時間)後ろになりますので、ロスに居て夕方16:00頃に日本へメールすると、明日の9:00頃の日本へリアルタイムで届くことになります。とても不思議で感動した記憶があります。

メールは、仕事上の無機質な会話や用件のみの伝達手段としては、とても有効なツールだと思います。ただし、ですね..友人とのデリケートな会話や、相談を受けた時に返信する場合などはとても神経を使います。

微妙なニュアンスだったり気持ちの暖かさなどが、本当に相手に伝わっているのか?あるいは、どうすれば伝えることができるのかを、もう色々と考えたりして文章を何度も直したりしていると、ついつい長文になったりします。それに、メールを出してもなかなか返事が帰ってこなかったりすると、「あれ、変なこと言っちゃったかなぁ?」とか余計なことを考えて見たり。またその逆も..。実はその時、相手はニコニコして届いたメールを読み返していたりして..。

まぁ、そんなに心配なら直接電話すれば良いんじゃないの、と言う声が聞こえてきますが..。おっしゃる通りなんですけど..時には電話できないことも、色々とありますよね。

wrote by Satoshi Ohtani : 22:33 | コメント (0)

好きな色はやっぱり... - 1.日々の雑記

色の嗜好性を集計したアンケート結果は、「Color Dream Net」で参照することができます。サイトへ訪れた方を対象に、1997年4月1日から6月28日の約3ヶ月間に「好きな色」を1色選んでもらった結果をまとめたものです。その結果は「ブルー」となっており、多くの同種のアンケートでも青色系がトップとなる傾向にあるようです。
「好きな色は何色ですか」と具体的な商品などを特定せずに選ぶ色のことを、「純粋嗜好色」と言うそうです。この「純粋嗜好色」ではブルー系が世界的にも人気があり、また「数字」の好みでは7が選ばれることが比較的に多いため、「ブルーセブンの法則」などと言われています..ご存知でしたか?

また、好きな色や嫌いな色とは別に「流行色」については、「社団法人日本流行色協会」が実シーズンの約1年半前にトレンドカラーを発表しているので、ご参考にされてはいかがでしょうか。

ちなみに、私のマイカラーもブルー、特に「steelblue」、「navy」が好きです。このアンケート結果を気にして、本サイトの配色を施した訳ではありません。理由は他にありますが、それは追ってご紹介します。

wrote by Satoshi Ohtani : 21:14 | コメント (0)

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