2011年11月 7日 (月曜日)

謙虚さ - 1.日々の雑記

パナソニック(旧社名:松下電器産業、松下電器製作所、松下電気器具製作所)の創業者である松下幸之助の数多くの著述の中にも頻出する、「謙虚」という言葉。謙虚さ、よきリーダーに必要なキーワードなのだという。

日本人が好んで使うこの言葉は、いったいどのような意味を持つのだろうか。「集中力」、「決断力」、「変革する力」など他の言葉が発する力強さとは対照的に、一見するとマイナス思考とも感じられるこの言葉が持つ意味を、考えてみたくなった。

真に求められる謙虚さとは、いったいどのようなことなのか。「謙虚」が持つ根底の意味とは、この言葉が持つ本来の力強さとは。控えめな態度を取ることや他人に遠慮することが、謙虚さということなのだろうかと。

謙虚は美徳か
日本人には慎ましやかな態度や控えめな態度を美徳と感じるところがあり、自信を持った態度や発言は時に生意気だとか鼻につくなどと評されることがある。謙虚な態度は美しささえあるなどの発言は、そんな感情が言わせるのだろう。

「優秀で実力はあるかもしれないが、どうもあの態度は好きになれないなぁ」など、接した際の感じ方や表現の仕方によって、その人自身の好き嫌いが左右してしまうことは仕方のないことでもある。また自信を持った発言をする人を好み、評する人も中にはいるだろう。しかしそのこと自体は謙虚さに欠けているということではなく、好き嫌いといった感情や気持ちに触れたいわば嗜好の問題である。

素直に肯定する
謙虚さとは、あくまでも今の正しい自分の姿を真摯に受け止めるとともに、肯定すべきところは肯定することではないだろうか。それには、弱さや強さといったことも含めて、自分自身を客観的な事実から正確に把握し、正しく理解することが大切である。自分が求めている、優れていると考えられることは素直に評価し、そしてさらなる目標を掲げれば良いのではないだろうか。

自信があるのなら、考えたこと思ったことを素直にそう伝えれば良い。偉ぶる必要もないし、遠慮をする必要もない。自分自身を評価した基準さえ間違っていないのなら、人の目さえも気にする必要はないのである。

謙虚さとは、自分を素直に肯定することから始まるのではないだろうか。

wrote by Satoshi Ohtani : 07:00 | コメント (0)

2011年8月 7日 (日曜日)

自分はどう見られたいのか - 1.日々の雑記

「自分はどう思われているのか」、「自分は評価されているのだろうか」と、そんなことを気にする声を耳にする。いったいどのように思われているのか、本当に必要とされているのか。自分の評価と周りの評価とのギャップのはざまで、全てのことに自信を持てなくなった時に、ふと知りたくなるのだろうか。

「自分は他人からどのように見られたいか、思われたいか」と問われたときに、あたかも他人であるかのような目で客観的に外から自分を見た時に、と考えた人はどのくらいいるのだろう。

周りの人からどのように思われたい見られたいと考えた時に、自分がどう見られているかとの視点ではなく、「本来は自分がどうありたいと考えているが、実際にはどのようなことが不足していて、では何をすべきだろうか」と考えるべきではないだろうか。

生きていくうえでその自覚と覚悟を持って、自分自身に対して責任を求め続けなければならないのは自分であって、他人は他人でしかないのである。自分はどうありたいかがなければ、何も始まらないことにきっと気づくはずである。

周りの人の評価ほど、無責任ないい加減であてにならないものはない。自分自身で自分を正しく評価(冷静な分析)できれば、曖昧な綺麗ごとの目標を設定し満足するのではなく、より具体的な毎日の小さな目標を、コツコツと設定することができるように考えていけるはずである。

「自分はどう見られたいのか」は「自分はどうありたいのか」であって、自分はいま何をすべきかを常に探求することであり、自分自身と真摯に向き合うことではないだろうか。

wrote by Satoshi Ohtani : 10:30 | コメント (0)

2011年7月23日 (土曜日)

わからないことが、わからない - 1.日々の雑記

「考えてもわからない」、「さんざん考えてみたけど、やっぱりわからなかった」などと言う声を耳にする。しかし、それは考えていないことへの言い訳にすぎない。

ふと気づくと、誰かと何気ない会話をしながら話しを聞いているときに、相手の言わんとしているだいたいのことは把握していても、内容の細部までは正確に理解できていないことが多いはずだ。新聞や雑誌を読んでいるときに、地名、公的機関の名称や略語、社会情勢の動向も含めた文字や情報のすべてを、正確に理解していないままやり過ごしていることに、きっと気づくはずである。

大意は把握でき、「何となく、わかった」と感じたとしても、あくまでも相手の気持ちや意向についてわかっただけで、言葉で伝えられた内容の理解についてはかなり曖昧だということではないだろうか。

そんなとき、雑談や何気ない会話での「何となく」は許されても、社会生活の重要な局面での会話においては、誰が、いつまでに、何を、どのようになどといった提示された情報も含めた事実についての理解を、曖昧にしたままわかっていると勘違いしていることに早く気づかなければならない。この最初の出発点の理解がずれていると、その後のプロセスに支障をきたすことになり、想像や知識すら備わらずに、ひいては疑問すら湧かないことになる。

「わからないことが、わからない」は、わかっていないことすら気づいていないことであり、自分が何についてわからないかを知ろうともせず、整理もしないまま野放しに放置していることである。

人はどんなに優秀な人に教えを乞たり、どんなに素晴らしい教材で教育を受けたとしても、自分の頭と言葉でもう一度考え直さない限り、正確には理解できないものである。教えればわかる訳でもないし、学べば必ず理解できるものでもない。知識とか知恵というものは、自分の外側に百科事典のようにあるものではないし、自分の頭が理解して自分の中で生きているのが知識であり知恵である。そのためには、自分の頭で一つ一つ考え直して理解していくという努力と我慢が必要なのである。スポーツ選手が毎日のトレーニングの積み重ねの中から、苦労して会得した自分なりのやり方やタイミングなどと同じように、頭の中の考えも自分の中で咀嚼して考えることをしない限り、本当の意味での理解には到達しないのである。

わからないことに気づいて「何となく、わかった」と勘違いしないために、内容の細部までを正確に理解し把握したいのならば、一つ一つの疑問を分類し整理しながら、その答えを導くための地道な努力と我慢が必要だということである。

参考著書:白取晴彦(2005)『頭がよくなる思考術』ディスカヴァー・トゥエンティワン

wrote by Satoshi Ohtani : 07:00 | コメント (0)

2011年4月15日 (金曜日)

褒めたって、育たない人もいる - 1.日々の雑記

褒めて育つ、または伸びるタイプの人がいる。

時に、僕は(私は)褒めて育つタイプだ、叱られたりすると落ち込んで(萎縮して)しまう。そのような発言を聞くことが多いのも事実である。これらのことは子供の頃に叱られたことが少なく、叱られること自体に慣れていないことに起因したり、また一方的に叱られることが原因であったりなど、本質的には双方のコミュニケーションの取り方の問題であることが多いのではないだろうか。

そのような人たちの中には、叱られるようなことを平気でしておきながら、その結果を反省したり正すことをせず(できず)に叱らないで欲しい、と甘えているだけのタイプがいる。

常に誰かに守られて育っていると、ひとりでは困難な出来事の矢面に立つことができず、目の前の問題から逃避することしかできない。褒めるとぬくぬくとつけあがり、叱ると萎縮する。決してひとりでは立ち上がることができず、まるで転んだ子供が母親から手を引いてもらわないと起き上がることができない光景に、とても良く似ている。拗ねてイジケてただただ泣き続け、声を掛けてもらえることを待ち続ける。そんな状態の時に「ひとりで起き上がることもできないのか、ダメな奴だ」などと言うものなら、睨みつけられて逆切れされる羽目に陥ったり、どうせ僕は(私は)などと居直ったりする。

とてもたちが悪いタイプの人たちである。

このような人たちの特徴は、自らが何かの行動を起こすことや自分自身で決断したり奮起したりすることが、とても苦手だと言うことである。叱られて萎縮した時に、自分自身で起き上がることができないため、人から立たせてもらわない限りは決して起き上がることができない。そんな時に、やさしい言葉をかけられて立ち上がることはできたとしても、辛い思いをすることから常に逃避する傾向にあるため、自分自身を見つめ直して修正することができずに、また同じ過ちを繰り返してしまう。何もせずに落ち込んでいれば、また誰かがやさしい言葉をかけてくれるだろうと、甘え続けているだけなのである。

周囲の人たちとの触れ合いが少なく(乏しく)して育ったせいか、周りの人たちとのコミュニケーションや触れ合いながら人間形成するとの意識が希薄であり、自分のことしか興味が持てなくなっている。その割には愛情に飢えているため、人から愛されたいと常に思っているが、周囲とどのように接したら良いのか未だに分からないのも彼らの特徴の一つでもある。

褒めて育つタイプを正しく解釈するのなら、自分のやったことやしたことを正しく評価して欲しい、理解して欲しい。そしてその結果が良いと思うのなら、褒めて欲しい。自分自身もよくやったと思うことを、他人も認めてくれて互いに同じ思いとなったことが、とても嬉しくなる。なので、また頑張りたくなった。そのようなことではないだろうか。

頑張った人だからこそ認めてもらえることであり、努力もせずに辛いことから目を背けて逃避しかしない人は、いくら褒めたって、決して育つことはないのである。

wrote by Satoshi Ohtani : 07:00 | コメント (0)

2005年7月17日 (日曜日)

東京って..やっぱり良いなぁ - 1.日々の雑記

久しぶりに東京へ戻ってきました。
夕食も終わって、実兄と部屋でいろいろと話しをした後、深夜にふらっとホテル近くを歩いてみました。

10から20代の頃の1番多感な時期を、東京で過ごしました。
仕事は別にして住む所じゃないかなぁ..と20代後半に考えるようになって。でも、出張などで新幹線の東京駅に着くと、無性に帰ってきたなぁと思います。特に山手線を見たり、乗ったりすると。僕にとっては懐かしい匂いがするんです。

戻ってこようかなぁ..なんて、最近思うようになりました。疲れてるのかなぁ。単なる郷愁に駆られてるだけだよなぁ。それにしても、広いツインルームに1人で泊まるのって、寂しいですね。

wrote by Satoshi Ohtani : 21:43 | コメント (0)

2005年7月13日 (水曜日)

メールでの会話って..苦手です - 1.日々の雑記

コンピュータと付き合い始めてから約20数年、電子メールの利用は約10年近く経過しました。仕事も含めてパソコンへは毎日向かっていますので、基本はパソコンメール、携帯メールは移動中などの「メール到着通知」(パソコンメールを転送)の手段となっています。

少し横道にそれますが、1996年12月に会社の海外研修でロスアンゼルスへ渡米した際に、やりたいことの1つに時差を飛び越えて会話することができる、電子メールがありました。時差はロスアンゼルスが17時間(冬時間)後ろになりますので、ロスに居て夕方16:00頃に日本へメールすると、明日の9:00頃の日本へリアルタイムで届くことになります。とても不思議で感動した記憶があります。

メールは、仕事上の無機質な会話や用件のみの伝達手段としては、とても有効なツールだと思います。ただし、ですね..友人とのデリケートな会話や、相談を受けた時に返信する場合などはとても神経を使います。

微妙なニュアンスだったり気持ちの暖かさなどが、本当に相手に伝わっているのか?あるいは、どうすれば伝えることができるのかを、もう色々と考えたりして文章を何度も直したりしていると、ついつい長文になったりします。それに、メールを出してもなかなか返事が帰ってこなかったりすると、「あれ、変なこと言っちゃったかなぁ?」とか余計なことを考えて見たり。またその逆も..。実はその時、相手はニコニコして届いたメールを読み返していたりして..。

まぁ、そんなに心配なら直接電話すれば良いんじゃないの、と言う声が聞こえてきますが..。おっしゃる通りなんですけど..時には電話できないことも、色々とありますよね。

wrote by Satoshi Ohtani : 22:33 | コメント (0)

好きな色はやっぱり... - 1.日々の雑記

色の嗜好性を集計したアンケート結果は、「Color Dream Net」で参照することができます。サイトへ訪れた方を対象に、1997年4月1日から6月28日の約3ヶ月間に「好きな色」を1色選んでもらった結果をまとめたものです。その結果は「ブルー」となっており、多くの同種のアンケートでも青色系がトップとなる傾向にあるようです。
「好きな色は何色ですか」と具体的な商品などを特定せずに選ぶ色のことを、「純粋嗜好色」と言うそうです。この「純粋嗜好色」ではブルー系が世界的にも人気があり、また「数字」の好みでは7が選ばれることが比較的に多いため、「ブルーセブンの法則」などと言われています..ご存知でしたか?

また、好きな色や嫌いな色とは別に「流行色」については、「社団法人日本流行色協会」が実シーズンの約1年半前にトレンドカラーを発表しているので、ご参考にされてはいかがでしょうか。

ちなみに、私のマイカラーもブルー、特に「steelblue」、「navy」が好きです。このアンケート結果を気にして、本サイトの配色を施した訳ではありません。理由は他にありますが、それは追ってご紹介します。

wrote by Satoshi Ohtani : 21:14 | コメント (0)

2005年7月 9日 (土曜日)

さらに追記 → Bauhaus(バウハウス) - 1.日々の雑記

第一次世界大戦後の1919年、ドイツはワイマールに設立された国立総合造形学校のことです。バウハウスの設立理念は「技術と芸術の統一」で、技術と芸術の両者をいかに結びつけるかを教育の主要テーマとした学校です。開校はわずか14年間だったようです。

私はこの理念に共感し、永遠のテーマとしています。本サイトのロゴマークは、"Bauhaus 93"フォントで作成しています。

ご参考までに、住宅メーカの「ミサワホーム」はバウハウスのコレクターでもあるんですよ。「ミサワバウハウスコレクション」ギャラリーが、東京高井戸のミサワホーム総合研究所内にオープンしています(2005年7月現在、休館中..残念ですね)。

私は1999年4月に、「東北ミサワホーム」の注文建築にて自宅を新築しました。客の立場を利用して、バウハウス関連の書籍、写真集などを沢山お借りしました。役得ですね。さすがに、「差し上げられませんが..。」と言われました(笑)。

【さらに追記】:
※"Bauhaus 93"フォントは、フリーで入手することができますので、気に入った方はぜひご利用下さい。
→ 「TypeNow.net - B Free Fonts」 の97番目に、掲載されていますよ。

wrote by Satoshi Ohtani : 07:10 | コメント (0)

2005年7月 4日 (月曜日)

餃子には酢醤油が..普通? - 1.日々の雑記

20代の頃、友人とラーメン屋に入って餃子を食べようとした時に、友人が餃子へ醤油とお酢をかけた。

「えっ、なんでお酢をかけたの?」
「うん?だって普通だよね!」

この「普通だよね!」と言う言葉にカチンときて、険悪なムードのまま口も聞かずに黙々とラーメンを食べた思い出があります。

私はこの「普通は××でしょ」という言われ方が嫌いです。
何が普通なの? 多数決の問題? いずれにしても俺の中では"普通"じゃ無いんだけど..。
まぁ、"普通"で片付けられたことが嫌いな訳ではなく、自分の嗜好性や価値観が人も一緒だろうと、確認もせずに軽率に配慮しないことが嫌なだけなんですけどね。

... 続き

wrote by Satoshi Ohtani : 07:10 | コメント (0)

2004年5月25日 (火曜日)

仕事で上海へ行ってきました - 1.日々の雑記

仕事での2度目の訪中となりましたが、2月15から18(4日間)と上海へ行ってきました。フライト時間は約2時間、時差は1時間です。食事も北京ほど辛くなく、非常に良かったですね。

1度目の訪中は昨年の11月でしたが、その時に中国で観た韓国ドラマに出演していた「Hwang Cine」は、いま一番のお気に入りです。

食事と言えば、丸の内ビル6階「今井屋」に行く機会がありましたが、非常に美味しくて良いですね。まぁ、値段もとてもいいですけど。

wrote by Satoshi Ohtani : 00:00 | コメント (0)

前へ  1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34  次へ
Copyright © 2024 by Satoshi Ohtani, All Rights Reserved. No reproduction or republication without written permission.